あまり呑気に進めると飽きちゃいそうなので、方針を変えます。其の①

一つの記事を完成させてからUPするという基本方針を変えます。

時間がまとめて取れない時でも少しずつ書き足せる方が長期的にみて継続できると考えました。

とりあえず、今後は最後まで読んでも結論に達してないよって場合が多くなる。

後日追記する方向で、進めて行くので、更新されていないようでも、チェックした記事の末文はもう一度チェックしてねっ(又は気長に時々チェックしてねっ)て話です。

それでは、始まるよー!!大した話じゃない話が…

最近何となく思ってたことを書こう。と思ったらこれそのままだった。

...

【何かと対極的に考えてしまう事の危うさについてと、

 欧米人と日本人の頭の中身の決定的な違い】

 

古来より日本人は何か考えるときに、肯定的思考法を使うんだよねって話。

例えば貴方の好きな食べ物は何ですか?

という問いかけが好まれる。

まぁ、良くあるアンケートとか、初デートのつかみトークとか。

見受けますね。

それと、人に対する問いかけは

「本当ですか?」

が一般的かと。

小さい頃何故だか

「うそ~?」

と聞く事が多かったらしく、

「何で人を疑うの?善くないぞ!」

と、よく怒られた自分は、ひねたガキだったのね。

 

同じように自分に情報を取り込む時の手順として、例えば人から聞いた話を記憶する時、それなりにチェックをする機能があります。

自分の過去の情報から、それに見合うものと照らし合わせる。

脳科学の分野かな?

専門知識ではないのでご愛嬌として、恐らく「海馬」という所に引っかかている間に行われるはずです(本筋に対してどうでもいい事なので詳しくはWikiあたりで調べてね)。

 

この時に行われるのも肯定的な確認です。

「これは合ってるな、うん。次にこれも合ってるよな、OK」

という様な確認の仕方で検査します。

実際にはほぼ無意識下で行われるので、

「う~ん何となくそうね。」

程度の事ですが、その時に

「え?この前聞いたのと違うよ。」

と、検査で不合格があると、意識として顕在化します。

そんで、再検査。

でも一度審査を通過した記憶は検証が困難、まぁぶっちゃけ面倒なんですね。

外部の情報がよほど分かり易く説明されたものでなければ、それは多くの場合拒否してしまうか留保になります。

ま、分かり易い説明が付いている情報以外、受付を通過し難い頑固な検査機関という所でしょうか。

この場合は検査機関の判断基準は過去のデータベースなので、安心感がある反面、新しく難解な情報は、中々受け入れてくれないという古臭い検査体制。

許認可が遅い割に検査が甘い。

なんだか日本そのものみたいで面白いw

 

これに対して欧米人の思考は批判的思考法です。

「クルティカル・シンキング」とか言うんですが。

情報に対しても批判的確認からでしょう。

「これは合ってるの?え~大丈夫かね?え?成程そういう事なら解らなくも無いな。」

やな感じ、いきなり疑って掛かる刑事さんみたいですね。

アメリカなんかは特に、個人主義的だから保身という点で合理的なのかも。

いきなり疑う訳だから、同じ様に過去の記憶に照らし合わせるとしても、新しい情報を否定する情報を照らして行きます。

ただ、ここで面白い事に過去の情報であっても批判的に取り入れているので、ま~だ疑うんですね。

一応取り入れたけど、「あくまで“絶対”ではないよ!」というタグをつけて保存している。

という事は、検査に対して信用できるものは基本皆無、何も無いという事になります。

あー!面倒くさい奴らだ!何も考えず信じちゃえばいいじゃんねー。

実際に、これは学問の進化にも表れていて論文を少し前から順番に読むと、完成したと思われていた学説を批判的に論じた形で次の学説が生まれているのが分かります。

哲学なんて正にそうなんですが、ただでさえ面倒なことを、更に面倒にしそうなので…う~ん、そうだな、例えば天体の動き、夜空を見上げてみる。

.

何も知らない僕らであれば、普通に星が動いているとしか考えないし疑わないでしょ。

疑うの?貴方は科学者の素質が高い。

だって、見たまま話せばね、そりゃあ疑う必要もないほど星が動いてるんだから。

.

ところが、欧米人は昔から疑り深かったんですね。

最初に“地球が動いてる”なんて「トンでも説」を言い出したのは、確かコペルニクスでいいのかな(リンク貼るんで適当に調べてね)

そこからが大変。

まぁ、みんな自分の目でみて星が動いてる事を確認出来るわけだから、

「こいつ、何言ってんの?頭大丈夫か?」

と、言われたかどうか。

とにかく、当初は中々信じて貰えない。

本当に疑り深いやな奴ですね。

.

動いてるだって(笑)?→動いて無いじゃん!→否動いてるって!→何言ってんだ動いてないだろうが!だったら証明してみろよ!→ …

 

なんてやり取りを繰り返しても、「だって見た目は星が動いてるんだから」という意見は、やっぱり根強い(この間も惑星の動きなど研究は続いているし偉大な学者もいます)。

そこにとうとう確信した人が登場します。

ご存知、福山雅治…じゃなくてガリレオ・ガリレイさん。

この人の頭の中ってどうなってるんだか見当も付かない。

でも、欧米人は散々悩んだ挙句だからか、説明が上手いからではないという事だけは確かですが、その後は、さすがにそれだけ確認を重ねて疑ってきたので、天動説、

「いや、やっぱり星の方が動いてるのでは?」

というところには戻らなかった。

実に面白い…というか疑り深い。

句読点でいえばようやく「。」が打てたという所。

…建物に例えようかな。

家を建てるのであれば基礎のコンクリート(現代の場合)土台が出来たという事ですね。

次は「建て方」といって構造部分の柱とか梁とか屋根なんかのしっかり建物を支える部分を組み上げます(壁面で強度を保つパネル工法、聞き覚えが有りそうなのはツーバイフォー工法とかもある)。

一昔前でいうと大工の棟梁の出番です。

「よっ大将!りんごが落ちましたよ!!」

この人がご存知ニュートンさんです。

 

…ちょっと比喩が面白くなっちゃって、長くなりました。

ま、欧米人は疑ってかかるのが常識なんですね。

そんな性格疲れそうだし、「人は信じあうもの」って教えられた気がするなぁ。

んで、この場合は検査機関が複層構造になっていますね。

ゲートが数箇所ある飛行場みたいなもんでしょうか?

人間ドック?んー、タレントオーディションかな。

書類審査→地方オーディション→全国大会→最終審査→おめでとう!!

激戦で勝ち残った人はそれだけ信用され、大事に育てられますね。

入り口は広くても出口は狭い。

あちらの大学なんかはそうですよね。入学は易しくて卒業する方が厳しくなってます。

 

こうやって例えてみると、やっぱり実社会に反映されてるね。

で、どちらがいいの?って話になる。

まず、一つ気をつけたいのが「どちらか」しか選択肢が無いって考えちゃう事。

これ、恐らく欧米人も日本人も関係なくおちいり易い罠です。

どちらかしかないって?そんな事はないんです。えーと、色鉛筆でいいかな。

色鉛筆を開けてみると両端からキレイにグラデーション、少しずつ色が変化していきますね。クレヨン?まぁ、クレヨンでもいっか。

そうそう、実は〝Mr.children〟の大ファンなんですが、「GIFT」という曲の歌詞に

白か黒で答えろ。という、難題を突きつけられ、

ぶち当たった壁の前で、僕らはまた迷っている。迷ってるけど…

 

白と黒のその間に、無限の色が広がってる、

君に似合う色探して、優しい名前を付けたなら、

ほら!一番きれいな色。今君に贈るよ

 

…う~ん、本当に良い唄だな。

まぁ、そういうことです。世界中に暮す大勢の人が、たった2つの考え方に収まるわけがない。

その時その時で違う事もある。それでいいんです。ってミスチルの櫻井さんも唄ってます。

意味が違う?

そうかな、僕にはそう聞こえるんだけれど…ま、そういう事にしましょうよ。

まずこの唄を覚えて…この事を踏まえておきたい。かなり大事だよ。

その上で批判的思考法と肯定的思考法の良いところと、悪いところ、

ちょっとかっこつけてカタカナで言うと、「メリット」と「デメリット」を見てみよう。

批判的な考え方からやっちゃいます。 

この場合のデメリットは人が信用し難い。まぁ、日本人的考え方なんですが。

 ・人と人が信頼を持てるまで徒労とも呼べる時間を要する

 ・新しいものに簡単に転化する事が難しい

 ・反証を繰り返すので同じ所を往復する様でもある

 ・その時点での非科学的な現象について説明しきれないので否定的になる

 ・ベースになる部分が違った時にひっくり返すのが困難である事

 ・合理さ故に人の精神的な部分を置いて行きがちである事

  

考えて行くと根が同じなので、他に発展し難いかな。他に思い当たったら教えて下さい。

 翻ってメリット面として

 

・意思決定が非常に合理的である事

 ・現実に転化するとかなり効率的である事

 ・裏付けが確たるものでもあるので、ロジックとして積み上げ易く、説明がし易い

 ・それ故にズイズイと物事が進む事

 

等があるといえる。これも思いついた部分でしかないので、指摘が有れば頂きたい処です。

 なるへそ、“欧米か!”という形が満載ですねー!

…っとこの「欧米」って括りも実は上手くないと言えるんですが、脱線しちゃうかな?元々「欧」に反旗を翻した(主にイギリス)のが「米」な訳ですから、見ようによっては対極的なんですよっ、と付け加えておきます※

では、我が日本の肯定思考について、 肯定的に考えるデメリット。

まぁ、簡素化すると上記の反対なんですけどね。

 

・意思決定が合理的に為され難い事

 ・効率的では無い事が継続してしまう事

 ・裏付けが曖昧な事が許されるので印象論や都市伝説ももてはやされたりする事

 ・それ故にバイアスが掛かっている物事を放置してしまう事

 

そのまんま反証しただけですが、当たってるかと。

そして、個人的には好きな部分でもあるんですが、メリットですね。

・確たるものが無くても、人同士がわりあいと気楽に信じあえたりする事

・新しいものを取り入れるのに余計なプロセスが無い分スムーズでもあり、且つ古い物をでも尊重できるところ

・非合理的な事でも否定しきらない曖昧さ(メリットか?)

・なので割りと過去の説の誤りを受入れ易くもある(のかな?)

・合理性重視でないので、精神的な部分、心なんていう物を重んじていたりする

といったところですかね。(同じく指摘が欲しい)決して悪くないと思います。

ただね、一番肝要な部分というかこの記事で言いたかった主旨の部分ですが、この2人(欧米人と日本人)がやり取りする上で合理さに人情論が勝てないんですね。

この点で、本質的に日本人は不利であると言えます。

本来の日本人は物事をそれほど疑わない。

無言の信頼とか信用って美徳です。

江戸時代なんて、庶民の家には鍵が無かったらしいです。

鍵が掛けられていたのは、せいぜい悪代官と癒着した悪徳業者の蔵だけですかね。

お人好しとも、理想的ともいえる日本人、よそに外敵が居なければ良かったかもしれません。

グローバリゼーションなんて、鎖国と真逆ですから、学習しなければならないでしょう。

しかも、日本も世界も間違いなく変わる、必然的に。

いや、ホント、今世紀中の近未来の話ですよ!

まず、「批判 」についてですが、日本人は基本的に嫌うでしょう?

自分を「反証」されるのに慣れてない、曖昧さのデメリットですね。

 

自分を疑われる事自体、不機嫌になる要素ですから、議論というより罵り合いに陥ってしまったりします。

討論の上手い人を見ると相手の感情を逆撫でる事も技術の一つだったりします。わざと相手を怒らせて、議論のテーブルに着かせたり、感情から出てくる言葉を拾って論理破綻を指摘して論破してみせる。そんな高等技術があったりします。これじゃあ見事に勝ち目が有りませんね。

実際にツイッター等でも見られますよ、その一端と言えるのは某有名市長さんのツイートです。言はハチャメチャ(なので支持出来ないんですけど)でも手法は中々w

冷静に読むと興味深い。

 

そんでこれに陥る人の共通点として、特に日本では混同されるんですが、「批判(的指摘)」するという事と「批難」や「否定」される事って、根本的に違うんです。

まぁ、現実でも件の“マスメディア”でさえ「ろく」に出来ていないので、理解は難しいところでしょうけど、これを読まれた人はとりあえずでも、「別々」の事としましょうね。

その上で、「21世紀の日本人」にまず必要になりそうな事として、偉そうに(笑)箇条書きしておきますが、これについても、出来ればね、追加すべき項目や指摘が欲しいです。

 

・議論については相手の命題や文章や言のロジックの問題を批判的に反証して指摘する。

・人格攻撃ともいえる「個人への批難」や「人格否定」といった物は受け流すか放置。

・自分はその土俵に乗らない。(相手によってはその土俵へ誘うと高等テクニックといえますが、日本人向きかな?)

・「あいつ(以前に失敗した人など)が言う事は全部間違いだ!」とか最近では「(某)政治家が金に関して汚職していない訳が無い!」という決め付け論が展開されたりします。反証はされましたよね?こういう処も考え直した方がいいでしょう。

・まず、一歩目として大事であり、最も難しい事、「あしたのジョー」でいう処の“ジャブ”なんですが、自分を疑ってみるという事を有る程度繰り返しておく、つまり慣れておく必要があります。

 

これを制すると、とりあえず1段階は制するんですが、年齢が高くなるほど難しい事でもあるといえます。

 

鉄は熱い内に打ちましょうという話ですが、せめて、次世代を担うお子さんをお持ちの方々には“必ず認識しましょう”と言い切っておきます(色々と棚に上げます)。

という事で、この記事のまとめです

様々なメディアを介してニュースや情報が飛び交う昨今。

既存のマスメディアが正解なんて事はありません。(…っと通信大学の講師でさえ断言していますよ)

必要なスキルとして、日本人の僕達が苦手な

「欧米型の批判的思考方法」と「論理的な反証と積上げ型思考方法」

は方法論として取入れる事を強くお奨めします。

必ずしもそれが良いという事ではないですよ、と記事でも書いたつもりですが、この部分ではね!! 

単純に、思考を経ないで何でも受け入れる事が、かなり危なっかしい時代なんですね。

クワバラ×2です。

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続きはどうかな?何か言い足りなかったり、訂正箇所が有ったりすれば、この記事は続くかもよ?

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「断言は出来ない」と断言してみる。

近頃、

「急激なペースで色々と学習している最中で。」

と前置き。

関心が向かっていくモノに関して、あれこれと記事を書いてみては、次に考えたことと相反していると気付き修正。

なんてことを繰り返してる。

特に感情が加わると

「ラジカルな文章になりがちだなぁ。」

とか反省。

人は大抵

「やれば出来る~個人ができる事なんて大して存在しない」

の「~」を行ったり来たりしてるものじゃないの。

サヨクとウヨクに分けてみようか。

人の思想に限定して考えれば2次元的な図式に嵌めるのは無理があるでしょ。

総合的には現実と同じ3次元。

球体の内外に表す方がまだ納得できそう。

これだと極端な左右はぐるっと回って隣通しとも言える。

だから

「この前と言っている事が違う」

と決め付ける前に

「こう考えると意外と似ているな」

と納得できる事もあるぞ。

という、言い訳めいたお話でした。

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非究極の選択~鈍感力と敏感力~

「無自覚」な当事者は多い。

一々何にでも目を向けろとは言わない。

それでも時々「自覚しろ」と憤る矛盾。

間接的に“誰かの命を削っている”ことが確実にあると知る。

そんな事、わざわざ理解したい奴は居ないだろうし、そのまま自分に言い返せる事でもある訳で。

そういえば誰かが

「沢山痛い思いをして、傷付いてきた人は痛みに慣れて鈍感になる。鈍感力こそ強さだ(大意)」

と呟いてた。

そうなのかもしれない。

多分そうだろう。

.うん。

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ホントにそう・・・なのか?

散々痛めつけられて、傷だらけで、尚それでも敏感でいられる事こそ“強さ”ではないのか。

「鈍感なのが強さ」

というのであれば、世の中まだまだ痛みが足りない。

つまり平和、傷付く人は少ない。

そんな素敵な世界が何処にある?

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――“生きている限り確実に死ぬ”のは、真実以外の何物でもないという共通の認識。

病院の待合室は満員。

保険はよく売れる。

被災地のボランティアは外人だらけ。

どこを見ても、自分の死に敏感な奴だらけじゃないの。

反して他人の死には鈍感と決定。

他人の命に鈍感ならば、自分の命にも鈍感になれよな。

鈍感が強さだって?

そんな奴には「死んでも」負ける気しねーぞと。

ただ、ツイートした人は鈍感とは思えないし、だからといって弱い人ではないんだけどな。

.

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ニヒリスティック備忘録 ~後日記事にするかも~

本当は、

「ストーリーの読み方(ワンピース)」

の方を書きたいところではある。

けど、現在の世の中はやたらと考えさせられる事だらけで・・・

整理をしたいのでメモ的な備忘録を。

この頃考えている事や近況の箇条書きなので、意味不明な記事ではあります。

・今後と今まで

・今最も重要な事

・今最も重要ではないこと

・民主主義とは

・個人と社会(国家)ジレンマの心理

・大切なのはイデオロギー?

・世がアホなのか、己がアホなのか?

・疑問こそ学びの始まり

・「学」校ならば学ばせろ!

・知は情報に勝る

・マスメディアという誤謬

・“傷名”になった“絆”

・その気持ちはホンモノか?

・仲間で何人まで括れるか(最大数と範囲の検証)

・ハッキリしない国民性、でもハッキリしなければならない事

・僕と貴方の立つ位置

・大きすぎて見えないこと、小さすぎて気付かないこと

・「選ばない」のは「選ばない事を選ぶ」という選択

・「何もしない」のは「何もしない」という行動

・「知ってる」けど「解ってない」でしょ

・パンドラの箱は「善意」で開かれる

・劇場型社会というMATRIX

・自分の物語という歴史

・今、歴史の中にいるという自覚

・思考にも順序がある

・見えざるもの

・「知らなかった」はいつでも許されるか。

・知ろうともしない≒成長放棄=幼稚な人

・歴史(時代)は繰り返してない

・資本原理主義は“犭貪 ”(トン)という魔物

・自然エネルギーは再生不可能?

・世界と歴史は「予算」で動いている

・夢と欲望の類似性「価値の保存≒永遠の命」

・全部“太陽エネルギー”なのにね

・「自由」とは“ダブルスタンダード”だと知れ!

・「希望」なんて「期待」でしかない

・己の人生♎子供達の未来

・仕事という便利な言い訳

・全部自分のせいにしてみる

・正誤、善悪、道徳、モラルという“ものさし”

・彼我の違い

・彼考える故に我有り、我考える故に彼有り

・何も「見ない」のもひとつの生き方

・どこから想定外?どこまで想定内?

・「お金は汚い」という知恵

・武力行使のない戦争

・理想論と究極の妥協

・僕らにできる事

・その気になってみるという進化

―――書きなぐってみると、思った以上にテーマが重っΣ( ̄ロ ̄lll)

自分の目に映る現状が暗いだけなのかな。

暇な方、上の項目についての反論や思うこと、知っていること、何かあればどうぞコメントを。

今後益々議論は大切でしょうから。

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常識を疑わない非常識~普遍的な常識は在りえるの?~

「当たり前」とか「常識」とか「普通」という言葉を使う人は何を「常識」というのだろうか。

例えば「日本ではそれが普通」という事もできる。

それに対し「欧米では当たり前」と反論する人も。

どちらかといえば、ここは日本だし前者の方が理屈が通る。

欧米の「当たり前」はあちらでは「常識」でも、日本では「非常識」にあたる場合もある。

どんな時も変わらない、古今東西共通の「当たり前」はあるのだろうか?

言い換えるなら、「普遍的な常識」は存在するのだろうか。

そもそもが「常識」とは一体何だろう?

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さる著名な環境学の先生(以下「氏」個人名は避けます)がいる。

名前どころかTV出演もしていて顔を知っている人も多いだろう。

温厚な雰囲気で呑気な感じの人。

TVでしかしらない人には以外だろうけど、時々発言が(ある意味)乱暴だと他の学者や一部視聴者から批難されていたりする。

そして大抵の場合その内容は反論に留まらず「人格攻撃」になっている。

まだかわいいと思える内容でも

「あんたを信じて損した!」

「お前の寧言で人が混乱する!」

「責任とれ!」

など。

何が憎いのだろうか。

別に氏の人柄から擁護するわけではない。

説は説。それを信じるも信じないも選択はそれぞれ個々の人のものだ。

「絶対」とか「~しなさい」と決められたものではない。

仮にTVの発言で風評被害を被った人がいるとしよう。

その場合の加害者はそれを信じて買い控えを選んだ購入者、もっというとそういう人達の「幼稚さ」だ。

例えば風評被害というものが商品の売り上げを激減させたとする。

そのきっかけがTVでの誰かの発言だとする。

しかし、冷静に探せば同時期に他の人の反論は確かに存在していた(その時は反論の人数の方が多数)。

現在は情報を得る方法は無数にある。

何故そちらを信じないのか?選ばないのか?

有名な人の発言だから?TVが放送したのならTV局を訴えればいい。

結果、何も無ければいいし、それに越した事は無い。

でも、もしも仮にそれが誤りだったとする。

氏が噓つきかTVがインチキか、或いはどちらもか?

どちらともいえるし、どちらでもないといえる。

その場合責められるべきは誰なのか。

「この世に確かなものなど何も無い」

これは“不確定性原理(或いは不完全性定理)”といって少し学をかじった人であれば当然のように知っている事だ。

昨年の震災後TVでは必死に「絶対は(絶対)無いんですね。」などと白々しく繰り返しているので一般的にも知られているだろう。

あくまでも法などの規制のない「選択」は個々人の意志によるもの。

そして、他にも選択肢は間違いなくあったし、少なくとも「信じない」という選択はできたはず。

では、どうして風評被害が起こるのか。

もちろん様々なケースがあるが、端的に述べると、この場合は多くの人が人間の心理作用を「知らない」からだ。即ち「幼稚さ」の仕業である。

今も多くの人が好む「宝くじ」と「保険」はよく似た仕組みになっている。これらに価値をもたらすのは人の心理によるもの。

この「商品」を作っている人達はそのことをよく知っている。

それだけでなく統計や確立、それと行動心理学を多少学んでいるのであれば常識といっていいほどの事実。

これほど“無駄な買い物”は無いという事。

でも何故そんなに売れるのか?

コロンビア大学のシーナ・アイエンガー教授という人が興味深い講義をしていた。

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質問①あなたはどちらを選ぶ?

A:無条件で1万円(100$)貰える

B:ジャンケン※(理論上5分の勝負)で負ければ0円だが、勝てば2万円(200$)貰える

         答.____

質問②どちらを選ぶ?

C:無条件で1万円払う

D:ジャンケンで勝てば0円だが、負ければ2万円払う

         答.____

(※講義ではジャンケンとは言ってません)

「A or B」「C or D」選んでも選ばなくても続きの前に。

選択の科学

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彼女の研究はとても面白い。

以前Eテレの「白熱教室」で講義を放送していたので、多分NHKオンデマンドで観られると思う。

それよりさらに詳しい記述がある著書を紹介。

凄く身近なのに深い研究で日常にも役に立つ内容なので興味があれば。

京都で研究をしていた事もあり、日本文化にも詳しい。米国で一番知名度が高い野球選手として松井秀喜を挙げていて、意外(イチローだと思っていたので)ではあったが、確信した口調なので納得。

知名度=球団人気度×プレーヤーの人気(成績等加味)

こちらと同じで球団の人気が、本人の活躍に掛かるのね。

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話を戻すと、実は上の質問の期待値はどちらも同じになる(説明は省きます)のだけど、何故かこの答は大きく偏る。

①の答は8割以上Aになり、②の答はDに同じ程度偏る。

これは2人の心理学者が発表した

「プロスペクト理論」

というもので、これによりノーベル賞を受賞している。

質問によりどういった心理が作用しているのだろう。

講義ではこれを「枠組み」と呼んでいた。

①の質問は「利益」という枠組み。

②の質問は「損失」。

得か損かという事が人の選択を左右してしまう。

簡単にいえば、人は

「利を得る(得)場合リスクを回避」

しようとし、

「失う(損)場合はリスクをいとわない」

という心理が働くという理論。

どうでしたか?(ちなみに僕は偏屈なのか「①はB②はC」という結果で納得できなかった)いずれにせよこの研究は実際のデータを元にしているし、講義を受けていた人の答もハッキリ偏っていた。

ノーベル賞という説得力もある(不確定性定理を忘れずに)。

さて(この辺りを知っている人はともかく)、僕らは常に良い判断をしているのか?

更に彼女の講義では人の記憶がいかに「いい加減」なものかも証明してみせている(長くなるので興味があればご自身で)。

とりあえず言えるのは、「人間は多々間違えてしまう」ということ。

「選択」選ぶという行為は誰でもない自分のもの。

話を元に戻すと、TVで誰かの発言を聞いたとしても、その後の行動は「その情報を受けた人」の選択ということ。

誰か(何か)に強制されたり、押付けられたりした事でもないし、他の選択肢が無かった訳でもない。

風評被害は「損」の枠で起こったのか「得」の枠で起こったのか?

考えてみれば「何」がそうさせているかは自明のはず。

それを「誰か」とか「何か」の“せい”にするのは決して美しいことでは無いということ。

もっと言えば「幼稚」な行為だという事をまず自覚しなければならない(もちろん僕も)。

.

この記事は特にその先生を擁護する主旨ではありませんが反論はご自由にどうぞ。

ASさん。ご無事ですか? (再投稿)

現在2012/4/13です。(ココログのアクセス解析の地域データは当てにならないという話を聞きました。そうだったら、いいのですが)

以下2011/3/25にUPした記事ですが、失礼して再度手前に上げます。

今回の震災で被害に会われた方々に心から、心からお見舞い申し上げます。

書きたいことは山ほどあって、でも周りにたいした被害もない私の文章はなんか空々しく感じてしまい、下書きのままで・・・

そんな時ふと過去記事をみていて思い出しました。

数少ない訪問者の方々の中、以前よくコメントをいただいていた文章に暖かさを感じる方です。

ASさんご無事でいらっしゃいますか?

私の勘違いであればそれまでですが、確か宮城の方だったと記憶してます。

ココログでは訪問してくださった方のお住まいの都道府県やOSの種類といったおおまかな情報がみられます。(詳しい個人の情報はわかりません)

履歴が残るのも2~3日なので調べようもありませんが、ASさんの地域が確か宮城だったと。

ブログで遠方の方とコミュニケーションがとれるのを嬉しく感じていたのを覚えています。

更新もずいぶん滞っていたので、もうご覧になっていないかと思いますが、どうかご無事で・・・

ご無事でも、何か不自由はありませんか?私にできることはありますか?

もし、もしこちらに寄られることがありましたら、気持ちに少しでも余裕がありましたらコメントがいただけると嬉いのですが・・・

私の勘違いかもしれません。

でも、心配です。どうか・・・

文章変です。すいません。。

本読み感想文~暴力はいけないことだと誰もがいうけれど (14歳の世渡り術)~

憤りを心に持っている若者、安直な大人へ。

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暴力はいけないことだと誰もがいうけれど

中学2~3年生に読んでもらう事を前提にしているだけあって萱野氏の著書でも格段読み易い構成になっている。
最近彼に注目しはじめたけれど、何故関心を持ったのかがこの本でわかった。
この本が若者に示している事はタイトルに収まらない。

 本書内の言葉の曖昧さやロジックの甘さを指摘している人もいるが「評すれば評される」のは著者自身よく理解している上での執筆だという事は他の著書やメディアでの言動をみれば容易にわかる。
あくまでも対象は中学生くらいの年代であり「伝える」事を最優先したのではないか。
 仮に僕がその年代だったら小難しい「大人の文章」などに拘った文章など読む気もしなかっただろう。

 萱野氏は70年生まれで、当時の学校は荒れていた。
 氏は教師に暴力を振るわれた事を挙げているが、その他にも他校とのケンカや校内暴力などが全国的に起きており、死者も出るほどだった。当時の中学生が持っていた世間、教師、親、大人への反発は何だったのか、その後どうなったか。

 当時の大人は社会問題という「他人事」や「当人の甘えや家庭や学校の問題」と捉えていた。
 14歳程度の「知」ではそれを論理的に説明出来るわけもない(否、恐らく殆どの大人でも)。
 同世代の著者に同感を覚えていたのは彼もその答えを知っているからだ。
 
 今はすっかり見受けられない校内暴力は単なる「甘え」や「流行」だったのか?

 確かに今は笑いのネタになるほど当時の不良ファッションは時代遅れだ。そして今の中学生は精神的に大人。素晴らしい学校教育の変化と若者の自立だ、日本の未来は明るい。
 さぞ、良い社会になった…のか?学校の暴力は無くなったか?若者は納得して和解したのか?

 その答えの一つがここにある。当時(今も)の大人は誰も口にしなかった「暴力を道徳的に良いものとか悪いものと判断してはならない」とか「国家が暴力で成り立っている」という事を子供達に教える必要があるのか?

 結論からいうと当然のように「教える必要がある」現状を鑑みるなら学校の授業よりも大切な教えだといえる。

 子供に教えなければならないのは「大人はウソをついている」と言うことだ。
 簡潔にいえば本書は「暴力はいけない」というこの国の「ウソ」を指摘している。暴力は「ある」か「ない」かだけだ。
 世界にといえば「大袈裟」そしてこの国では「他人事」だが、では小、中、高校の、若い人達のまわりに、世間に「暴力」は無くなったのか、問題は無くなったのか?
 14歳じゃなくても現実を知りたい人、子供にウソを付きたくない人にはお奨めです。

本読み感想文~「生きづらさ」について~

この数日は萱野氏の本ばかり読みこんでいます。

同じ70年生まれというところや暴論ともいえる内容の著書、行動と言論を実践しているところなどに好感を覚えているのは確か。

端的にいえばアーティストの追っかけ気分かもしれない。

少し前の記事でも触れた

「生きづらさ」について

Photo

雨宮処凛/萱野稔人

共著の雨宮氏には不思議な印象をもっていたけれど、彼女の人生には数年前に他界した友人と共通するものを感じてしまう。

【以下書評】 <見えない光を探す二人の対談>

貧困層の若者の経済的困窮からナショナリズムまで広がる内容だけど、スムーズに読める。

意外な点も多くなかなか考えさせられてしまう。

経済的な理由以外でも「生きづらい」と感じている人は多い。
「生きづらい」より追い込まれて「“もう”生きるのがつらい」人にすれば、
ここに救いはない…ことも無い。
それが多種多様な理由で生きづらい人を網羅出来るのかといえば難しい。
そこまででない人も承認欲求を保つ事で救われる可能性もある。
そんな悲観的な感想とは別に可能性を見出したい。

本書のワーキングプア、ネットカフェ難民など貧困層の若者が左も右も距離が近づいているという話は興味深い。
極右やルサンチマンに留まるか否か、それはそのまま分類法方の違う「政治思想」の現れともいえる。
現在、混沌とした日本の思想界を明確に定義して分類するのは難しい。
高学歴のワーキングプアも織り交ぜたリアルな運動が、自分の立場を擁護するのみに留まらず右も左も混沌としたその連帯意識が赤木氏的な「ルサンチマン」を超えた時、日本独特の政治哲学がアカデミックな高所でなくここから始まる可能性を夢想してみた。
とはいえ、本書の取り上げている「生きづらさ」を抱く人のナショナリズムはラジカルに成り易い性質なのは間違いない。
上記した可能性はあくまでもその危うさと隣り合わせのもの。
それでも現在は何かしらの変化が不可避だとすれば、若い世代が思想迷子の状態から道を見つける可能性とも捉えられる。
そこに救いはないだろうか。
この既存の左右ではない分類で、読者も読後はどちらかの印象に振られるのではないか。
それを一概に表現はできないし、確たる思想や立場の人もいれば単に反体制或いはルサンチマンかもしれない。
ナショナリズム嫌悪で極端にファシズムとして反発する人もいるだろう。
ただ、本書の“現実の社会問題”という内容を思想的に否定する人は、極端に否定すればするほど自分が対極の端に近いという事を自覚しておこう。

本読み感想文~憚(はばか)りながら (単行本) ~

元後藤組親分の告白本

憚(はばか)りながら (単行本)

暴力団排除条例の全国施行について考える資料として購読してみた。以下感想。

僕はその世界の者ではないが暴力団排除条例には反対の立場だ。
それでも本書を読み終えてみると「反対出来ない」という気持ちが生じた。

世の中が好況だった頃の「経済やくざ的自己哲学」はお持ちのようだ。
しかし現状のやくざ「暴力団」は完全に立場を失っている。
所属している人間は元よりその周囲の一般人も「日本人」として生きることすら否定される可能性がある条例「暴排条例」が全国にいきわたった後の山口組組長のインタビューに

「落ちこぼれ、世間になじめない人間もいる。われわれの組織はそういう人のよりどころになっている」

という一文があったが、この声は今の「風潮」にはじき返されるだろうと感じていた。

この国の多くの人は「暴力」に異様なほど過敏である。
「暴力はいけないこと」
と言っている人の背中を押すような本を出版するのは「憚り」と言えるのだろうか。

確かに「暴力団」や「暴力」など無いにこした事はない。

しかしたとえ今の「暴力団」が無くなっても「暴力」は無くならない。
暴力団は「必要悪」だと言う人もいるが、本当は「必然悪」の一つの形である。
これは「いじめ」や「戦争」と同じ根源を持つ問題である。

「いじめはよくない」
「戦争はよくない」

念仏のように繰り返しても何一つ問題が解決されていない現状を「いけない」「悪い」と繰り返す人に、どこぞの市長ではないが「では対案を示してください」と尋ねたい。

暴力は「必要」ではなく「必然」なのである。

国であろうが個人であろうが「正義」を必然とするならば「悪」を必然として認めるのと同意である。

しかしながら本書はそういう人への追討ちとなるだろう。
ここに書かれたことを「許していいのか?」と聞かれれば「対案を示す」事を風潮が許さない以上個々の声は埋没してしまう。

つまり「暴力はいけない論者」の「確証バイアス」を強化するという意味で見事な内容である。

後半で時事ニュースを持ち出し「堀江モン」や「島田伸介」を批判しているが、どうみてもTVで報じられる程度の内容を鵜呑みにしていたり、善意を晒す事を批判しながら自身の善意を晒していたりと、著者の浅慮さをも晒してしまっている。

本書はそういう面からも身内を追込む「暴露本」であり、その業界が特異なだけのものである。

思えば「暴力団」が「経済」を主に据えた時点で「任侠」は廃れてきたようだ。

本書には確かに「事実」と思われる事が書かれている。

しかし「事実」と「真実」は似て非なるものである。

一般に表面上は見えなくても、特に政令都市などは組織に所属してない者の「暴力」が存在し、警察は「事件にならなければ」、個人の経験からいえば「骨折の診断書があっても傷害事件の加害者が暴力団でなければ」ろくに対応しない。
 そういう者への抑止力になっているのは理解され難いところだ。

 出家するよりも、それをもう少し目に見える形にして「暴力」が「暴力」の抑止力たることを目指すのが「逃げない」事ではないのか。

確かに読み物としては中々面白い。

だがそれ故に(仮にこの評価で暴力に晒されることがあっても)本書の影響を考えないのは過去の人だからだろうか。

«恋のサングラス~「MATRIX」という現実~