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2009年2月の記事

2009年2月26日 (木)

高知白バイ事件。

この事件知っていますか?

白バイが通学用のバスに突っ込み、隊員が亡くなった事件です。

一度ニュースの特集番組で見たのですが、これは明らかに何かがおかしい事件です。

詳しくは↓

http://news.cocolog-nifty.com/cs/catalog/cocolog-news_article/catalog_domestic-200902251558_1.htm?s=app.f

事故当時、多くの学生がバスに同乗していて、全ての学生の証言は

「バスは停車していて、そこに白バイが突っ込んできた。」

というものでしたが、後から現場に到着した白バイ隊員の

「バスは低速で進んでいて、急ブレーキをかけた。」

というたった一つの証言を裁判官は採用。

被告になってしまった片岡晴彦さんは今現在服役中です。

この事件は多くの冤罪事件を一人一人が考える為にもっと世に出なければならない事件の様に思います。

裁判員制度も始まるわけですし。

本来ジャーナリズムは権威に屈せず真実を訴える役割をしなければ、既成事実を真実とすりかえる事件はなくなりません。

そしてそれは波風立てたくない日本のマスコミには期待できないのでしょうか。

 また、裁判官の立場は何より「冤罪をつくらない」事を第一にするべきなのに、本音は「権威を守る」事の方にあるのでしょうか?

裁判所から片岡さんへ送られてきた通知には

「反省の様子が伺えず・・・(大意)」

とありましたが、一体何を反省するべきなのか!?

繰り返しますが、片岡さんは現在家族を残して服役中です。

           それでわまた  三run

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2009年2月25日 (水)

不安定なもの。

簡単に書きたいんだけど、チョイムズかもしれません<(__)>

「相対性理論」なんて難しくてオイラには難解なものですが、それでも「宇宙」に興味があるとプロフィールにも書いている事もあり、多少の書籍を読んだ事があります。

しかしオイラの学歴とIQ程度で理解(ましてや説明など)できる代物ではありません

ので、難しい話はおいといて、観念的な話を少し。

ここからはあくまで、私の個人的薄学な考えで、「相対性理論」との関連もとくに意識していませんのであしからず。

 上記の理論は完璧にバランスが取れた状態が崩れて「宇宙」ができたという話を含んでいますが、世の中はやはりバランスで成り立っていると思うのです。

  • 男と女
  • 右と左
  • 動と静
  • 善と悪
  • 生と死

あらゆる物事、或いは考え方にさえ対照的なものが存在する

これらは同時に発生し、互いにバランスをとっているって話なのですが、なんとなく感じてしまう事ありません?

ただし完璧にバランスをとってはいないんです

ある時点での出生と死亡の総数や、善と悪にしても(統計のとりようはありませんが)常にどちらかに揺らいでいるのではないか?という風に考えたりします。

シーソーの両側が地面に付かずにギーコギーコしている感じです。

少しだけ難しい話になりますが、「相対性理論」では、現宇宙では、物質と反物質の比率は1/1,000,000,000だけ物質の方が多い(でないと成り立たない)らしいです。(この場合は「揺らぎ」とは異なるかも・・・)

いくつかの力(4つだったかな)が完璧に調和をとった状態は「無」だそうです。

 

 で、本筋。

 これって、人生にも言えません?

 例えばオイラは、子供の頃から善行もすれば悪い事もしてきました。

その時々で自分が悪でもあり、善でもあったと言えます。

人間そのものも、またこういった「バランスの揺らぎ(崩れ?)」によって成り立っているのかもしれませんね。

前出のの比率を「善と悪」に当てはめるなら、10億分の1だけ多い物質が「善」であってほしいものです

難しい話に下手な説明ですいません。

           それでわまた^^  三run

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2009年2月20日 (金)

何もせず=何も変わらず。

ガキの頃から人より少し数奇な体験をしているとは思います。

その中で、人の悪意や自分の内の絶望など、人より少し多く経験してきました。

悪意や欲望は誰にでも、もちろんオイラの中にも存在しているものです。

だからこそ、そういったものに気付き、向き合う勇気も必要なのです。

他人の悪意を単純に憎む前に、まず自分の悪意と向き合う事が必要なんだと思う。

人は自分の記憶を美化してしまうものですから。

偽善だとも思います、オイラはただ、人の役に立つことで、自己満足しようとしているんだから。

そんで、誰に何を言われようが、それがオイラの生き方です。

なんつってね(^^)v

           それでわまた^^  三run

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2009年2月15日 (日)

戦術おたく。~名将の政治~

「人間は考える葦である。」(ブレーズ・パスカル)

私は昔から「戦術」とか「戦法」といった類のものが大好きです。

三国志、戦国時代、近代フットボールの本などの類は読み漁ってます。

古くは中国の三国志時代から最近ではフットボール(今回のテーマはこれです)まで、戦いにおいて最も重要なのは個々の人間の能力(力)と指揮する側の采配(頭脳)です。

個々の能力は確かに戦局を左右する重要な要素ですが、指導者によって、その能力を最大限に発揮させる者もいれば、埋もれさせてしまう愚者もいます。

 そういった愚はたびたび起こります。

今では伝説になろうかという天才プレーヤーのイチローが、オリックス時代に野茂投手からホームランを打った翌日に2軍に落とされたり、

代表に選出されながら、ほとんど起用されていなかった中田英寿選手など、見出せた監督と見出せ(さ)なかった監督では明暗がくっきり分かれてしまいます。

 ここからは私の勝手な考えですが、当時無名だった選手を起用したり、大胆な攻撃的戦術をとるのは指揮官にとって「リスク」であり、誰もが知る選手、戦術(戦法)を用いるのは「保険」です。

思い切って起用した選手が結果を出せない場合、非難を受けるのは指揮官であり、また、有能な選手であっても本人自身が萎縮していってしまう可能性もあります。

選手とチーム(武将と軍隊)の為にあらゆる事に気を配れなければ(思い切ったことをしてもこれが出来ていない指揮官も多いように思います。まぁ、それだけ簡単な事ではないという事ですが)、思い切った采配も揮えない、そこに名将と愚将(凡将)の差があると思うのです。

良い指揮官は「リスク」知り(取るというのは本当の意味では知るという事でもあります)、悪い指揮官は「保険」をかけたがります。

三国志の人物でいえば、もっとも「リスク」を知っていたのは、曹操、諸葛亮あたりでしょうか。リスクを“取る”という意味では呂布もそうですが・・・

日本の戦国時代でいえば、信長、秀吉、明治維新では高杉晋作等ですかね。

フットボールの話で申し訳ありませんが、今、名将といえばロシアを率いるヒディング監督や、昨年までイングランドプレミアリーグのチェルシーで指揮をしていたモウリーニョ監督あたりでしょうか。

(前代表監督のオシムさん等まだまだ沢山思い当たりますが、それらを全て挙げていくと読むのも嫌になるほど名前で埋まりそうなので)

彼等の素晴らしいところはまず人材を見出す慧眼、そして選手とその地域の風習や伝統をよく知ろうとするところから始めるところです。

その姿勢こそが(他にも要素は沢山ありますが)数々のまるで異なるチームで素晴らしい結果を残してきた原点でもあります。

有能な若手を思い切って起用するところまでは、現日本代表監督の岡田さんは良いと思うのですが、(中田選手を起用して成功したプライドもあるのでしょう)上に述べたようにその本質まではまだ足りない。そんな風に見えるのですが。

日本が本当に(フットボールで)強くなる為には、こういった名将の教えがまだまだ必要なのですが、本当の問題は監督云々の前に、JFA(日本サッカー協会)の政治的な部分が大きいと思います。

劉備玄徳が「三顧の礼」で諸葛亮(孔明)を招いたような気概を犬飼キャプテン(日本サッカー協会会長)にも、求めたいものです。(本質はわかりません。ただそれなりのモノがまるで表には見えてこないので。)

あくまで個人的主観です。あしからずご容赦下さい。

           それでわまた^^  三run

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2009年2月14日 (土)

15秒ルール。

今年からプロ野球では

「15秒ルール」

が適用されるそうです。

 プロ野球のセ、パ両リーグ審判部合同会議が30日、大阪市内で行われ、無走者のときに投手が捕手などからボールを受けて15秒以内に投球しない場合は、審判員が「ボール」を宣告することを確認した。試合時間の短縮が目的。すでに実行委員会で合意済みで、日本プロ野球組織(NPB)が審判員に正式に伝えた。

 従来の投球制限時間は「12秒以内」だったが、「投手が打者に正対してから」で運用されてきた。「投手がボールを受けてから15秒」とすることで無駄な動作を減らし、スピードアップを徹底する方針。アグリーメント(申し合わせ事項)に盛り込み、強制力をもたせる。試合中は二塁塁審が時間を計り、15秒を超えたケースは「ボール」を宣告する。

世の中が変わり、投手の呼吸は完全に度外視されるようになったのでしょうか。

確かにスピードアップは大切ですが、あの“間”は中々見所があって楽しいのですが。

私が物心ついて最初に野球に関心を持ったのは

「ドカベン」

でした。「巨人の星」もそうですが、あのアニメ、

時には30分の放送の間にたった1球しか投げない時が(定かではありませんが1球も投げない時も)あって、それでも心理戦や駆け引きがあって飽きずに観ていたものです。

まぁ、あまりに進まない展開に多少イライラしましたが(^-^;

これからの時代、野球漫画やアニメもスピードが求められたりして( ̄ー ̄)

           それでわまた^^  三run

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2009年2月12日 (木)

世の中を変えてきたのは。

「世の中を変えてきたのは政治では無く文化だよ。」

と、先日「世界の北野」ことビートたけしさんが話していましたが、本当に歴史を作ってきた原動力は文化そのものです。

「拉致問題の呼びかけを「6カ国協議」の席ではなく、映画化して世界の何十カ国で公開した方がよほどなんらかの動きがあるだろう。」

とおっしゃってました。すごく納得できる意見でした。

歴史上重要な役割をしてきた文化は沢山あります。

例えば「紅茶」「珈琲」は文化として世界中に浸透しました。

紅茶においては、良質のお茶葉が欲しかったイギリスが、中国にアヘンを密輸させたことを発端にした「アヘン戦争」なんて戦争まで起こったりしています。

ちょうど昨日W杯の予選で日本はオーストラリアと対戦しましたが、この「フットボール」も世界的に大きな文化として浸透しています。

挙げるとキリが無いほどフットボールと世界史は興味深く関わっていますが、ここに第2次世界大戦前と後のヨーロッパにおける悲しい歴史を一つ。

以下は西部謙司さんの著作「サッカー戦術クロニクル」からの抜粋(一部要約)です。

~~~西暦1939年1月23日~~~

オーストリアのウイーンのアパートで男女の自殺遺体が発見されました。

彼の名は「マティアス・シンデラー」

女性はシンデラーのガールフレンドで「カミラ・キャスタノラ」という方です。

シンデラーはフットボールのオーストリア代表で“紙男”の異名を持つセンターフォワードで、それから60年あまり経過した後に20世紀最高のオーストリア選手に選出されています。

得点力とゲームメイクに飛び抜けていて、敵の僅かな隙間をかいくぐっていくプレースタイルから“紙男”というニックネームがついたそうです。

第2時世界大戦以前、サッカーの強豪国の分布図は今と違っていて、オーストリアやハンガリーは強豪国でした。

シンデラーの居たオーストリア代表チームは「ヴンダーチーム」と呼ばれ、当時のヨーロッパを席巻していました。

1934年、現在のユーロ選手権やチャンピオンズリーグの原型といわれる「中央ヨーロッパ杯」(ミトロパ杯)で優勝し、事実上ヨーロッパ最強と謳われたそうです。

そして、1938年第3回W杯では見事に予選を通過します。

―――しかし事実上、オーストリア代表チーム「ヴンダーチーム」はそこで消滅。

ナチス・ドイツに国が併合されてしまったからです。

ナチス・ドイツは彼らを「ドイツ代表」として招集します。元々ドイツ代表は強かったのですが、「ヴンダーチーム」の精鋭を加えて最強チームをつくろうとしたのです。

シンデラーはこの招集に応じませんでした。体調不良や高齢を理由に辞退を繰り返します。

そして彼には非難の目が向けられます。

彼はユダヤの血を引いていて、当時のチームメイトがドイツ代表としてプレーするのを見て失望していたそうです。

そんなシンデラーは一度だけナチス・ドイツの要請に答えて1938年4月(死の10ヶ月前)にプレーしました。

「統一ドイツ代表vs旧オーストリア代表」

という試合で、ドイツ代表ではなく旧オーストリア代表の一員としてです

「統一ドイツを勝たせるように」

とういうナチスの指示を無視して1ゴールを決め、旧オーストリア代表を2-0の勝利に導いたのです

しかし最後までドイツ代表のユニフォームに袖を通す事無く35歳で恋人と2人自らの命を絶ちます

~~~当時は事故死と伝えられたそうですが、友人の話などから自殺と推定、謀殺説もあるそうです~~~

                  以上上記著書より。

―――こんな悲しい出来事にフットボールの歴史と世界が深く関わっている事を考えさせられたりします。

戦争がもたらした悲劇の一つです

北野武監督、この話映画化してくれないかな。

           それでわまた^^  三run

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2009年2月11日 (水)

もったいない。

世界中どの国の言葉を探してもこの、

「もったいない」

という意味に該当する表現があるのは日本だけだそうです。

臓器提供意思表示カードというものがありますが、生きている間に死後の臓器提供を考えるのは中々できる事では無いのかも知れません

しかし、どうせ灰になるだけの遺体。私は「もったいない」と思います。

もちろん、遺族や友人や恋人の気持ちを思うと、大切な人の亡骸が部品の様に扱われるのはいたたまれません。

カードを携帯するにあたって、母に署名を求めましたが、

「考えさせて。」

と言われてしまいました。自分の体ではあるけれど、母に頂いたものでもあります

この事は本当は一人で決めてはいけない事なのかもしれませんが、もし、死んだ私の臓器で誰かかが助かるのならば、自分自身も少しだけ人生に意味を見出せるかもしれないし(死んでいますが^^;)、素晴らしい事だと思うのですが。

現在、アメリカにおいて心臓移植手術を受けて死の淵から社会復帰される人は年間約2000人だそうです。

これは心臓移植のみのデータですが、腎不全等で苦しんでいる方などを思うとその数(網膜等も含めた全ての臓器移植手術)は年間何万件にも上るでしょう。

心臓移植手術のみの数字ですと、アジアでは韓国や台湾でも年間100件ほどですが、日本はというと―――年間たったの5件程度だそうです。

国内で移植が困難な場合、日本人はお金があれば(あるいは募金を募って)海外に行って手術をうけます。

しかし、中国では国内の臓器移植をよその国の人に行う事を禁じたそうです。

これは中国の中だけでも臓器が足りず、外国人に分ける余裕など無いという切実な話なのです。

それでも、お金持ちの日本人であれば、裏ルートで手術してもらったりしているそうですが。(先日そういったニュースが新聞に出ていました)

日本の臓器移植にはまだ意識や法律(15歳以下の臓器提供は法律で禁止。つまり子供の助かる可能性は国内に無いに等しい。)、宗教観などの様々な問題があるのですが、せめて今自分にできる事は、親を説得して意思表示カードを持つ事です。

そのカードを携帯している人の割合はたった3%程度だそうですが、97%の誰かが健康になれる可能性を火葬場でただ燃やしてしまうのは、本当に

「もったいない」

少なくとも私はそう思います。

           それでわまた^^  三run

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2009年2月 7日 (土)

目に見えないもの。~2%~

大昔から、日本(仏教の概念らしいですが)には

“生まれ変わり(転生)”

を信じる向きがありますが、「幽霊」「転生」生きている人には(少なくとも私は)知る事もできない事です。

私自身は、これらの事もそうですが、“あらゆる宗教の言うところの神様”も含め98%信じていません

残りの2%は・・・

信仰を大事にする事自体は素晴らしい事だと思います。

でも、多くの宗教はお互いの神を祭り上げ、紛争を繰り返します。

人の弱さは都合よく救いを求めます。

それらが本物なのか?私はそういった存在が仮にあるとしてもまったくの別のものだと思っています。

そして、霊や転生は“死”に希望を持ちたい「生きている人間」が勝手に考えたものだと思っています。

人の人生は一度きりだから尊いのだと思います。

でもね、もし幽霊が存在するとしたら、そういったものが見えて話せるとしたら、それは怖いものなんかではない気がしませんか?

誰にでも、一人や二人会いたいけれど会えない人がいると思います。

亡くなったおばあちゃんやかけがえのない友人達、逢った事さえないおじいちゃんとも一度話してみたかった・・・

そんな事が出来るなら信じてみたい気もします。残りの1%はそんな気持ちです。

誰かを救いたいと思った人間が、自分が無力なのを知り、出来る事といえば結局ただ、祈るしかないのでしょう。それがもう1%です。

信じていないけど、信じたいのか!?なんだか文章変ですみません。

           それでわまた^^  三run

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2009年2月 6日 (金)

命なき人の声。

一つ前の記事に匿名性に隠れてネットで人を中傷する輩についてふれましたが、ちょうど芸人さんのブログに悪質な書き込みをした連中が摘発されましたね

日頃のストレスのはけ口なのか、書かれた方は堪らなかったと思います。

こういった検挙はどんどんしてほしいものです。

記事をUPした後にニュースをみて、

「タイミング合ったなー」

などと思ってしまいましたが、こじつけるともう一つ。

フジテレビの月9ドラマで、

「ヴォイス~命なき者の声~」

を放送していますね。臨床医(学)の話です。

同じく一つ前の記事に書きました友人(芸名は私には今ひとつピンときません。またその件の検索ワードにかかりたく無いので“友人”と書かせて下さい)の死因がハッキリしたのもこういった職業の方がいてこそなんだと思ってしまいました。

TVで中山秀さんが、彼女は、

「あれ?私死んじゃったの?違うの、ホントそういうんじゃないんだって!と言ってると思う。」

と、コメントしていましたが、まさしくその声を拾ってくださったのは臨床医と呼ばれる人達のおかげなんですね。

たまたま現実とこのドラマが被ったもので、本当に大切な職業なんだと実感しました。

―――今までも何度か体験してきましたが、人の死にふれるというのは大切な経験ですね。

色々と考える事が多くなりますし、そしてまたそれが生きている人間が“せめて”出切る事なのだとも思います。

考え、ほんの少しでも自分の出来る事、ちょっとでも行動する事。肝に銘じなくては。。

            それでわまた^^  三run

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2009年2月 5日 (木)

発言とその責任。

暴力というと、直接相手の体に危害を加える事と思いがちですが、無責任な発言で人が傷つく事もあります。

昨年末に亡くなった友人に関して、マスコミやネット上の匿名の書き込み(全てではありませんが)にとても憤りを感じていました

やっと死因が肺炎だと発表されて、彼女と親しかった人やファンの人はスッキリしたことと思います。

嘆かわしい世の中ですね。ネットで誹謗中傷などの発言する時は、責任と覚悟をもって(自分の本名くらい明かすつもりで)もらいたいものです。

(年末にその事について記事を書いた時、そういう想いで本名を書きました。)

そして、この話の根本には(何度も言いますが)マスコミの無責任さが発端のように思えてならないのです。

ひとつの事件を模倣した犯罪が流行のようになるのも、一部の意見を全体の意見のように煽るのも、自殺のしかたをある意味宣伝するのもマスコミです。

そして最終的に“誰か(何か)のせい”にしてしまいます。報道の責任はどうなんでしょうか?

そういった番組(報道やワイドショー的なもの)やゴッシプ誌では確かに「断言」はしません。しかし、報道の仕方には「憶測」がひそんでいます。

彼女があたかも「薬物で亡くなったのでは?」とか「自殺ではないか?」とかまた、「家族と疎遠で孤独だったのでは?」というニュアンスの報道をいくつも見ました。

(事後論になりますが、彼女を知る友人は共通して、「自殺するような奴じゃない」という意見でした。)

親しかった人達や、ファンの方々も腹立たしい人は多いと思います。

事実があきらかになった今、「憶測」で報道した側には、はっきり謝罪していただきたいものです。

これも暴力ではないのでしょうか?

少し感情的ですみません。

           それでわまた^^  三run

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2009年2月 1日 (日)

最高の人生の見つけ方。

先日つまらない言い合いで友人と喧嘩してしまいましたが、

翌日にはお互い非を認めて仲直りしました。

記事にまで書いてしまいました。削除しようかと思いましたが、いつか懐かしく読み返すこともあるかと、とりあえずそのままにしておきます。

感情的になると、時に人は心にも無い事を口にしてしまいます。

仲がいいほど傷つくけど、逆に仲がいいほど許せるのかもしれませんね。

モーガン・フリーマンとジャック・ニコルソンの2人が出ている映画、

「最高の人生の見つけ方」 

をみました。まったく違う生き方をしてきた2人が、お互い余命を告げられたところから旅にでるのですが、3~5ヶ月のあいだの話です。

しかし、その短い期間でまるで長年の友達の様に確かな友情を築きます。

「人生の宝モノを持っていますか?」

と、問いかけるような素晴らしい映画でした。

この問いかけに悩んでしまったり、或いは考えた事もない人も多いと思いますが、

私は迷わず

「YES」

と答えられます。皆さんはどうですか?

どちらにしても超お奨め映画です

           それでわまた^^  三run

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